江戸城・皇居


・歴史  
 
西暦  記事  備考 
 1457年  扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築城した。当時の文献では、江戸城は 「江戸の城」「江戸の館(やかた)」「武蔵江戸城」「江戸要害」などど呼ばれていた。  
 1486年  扇谷上杉氏に太田道灌は殺害され、江戸城は扇谷上杉氏が直轄する城となった。(江戸城の乱)  太田道灌は主君から上意打ちされた
 1524年  後北条氏の北条氏綱が扇谷上杉氏を破り、城は北条氏綱の支配下になった。  
 1590年  豊臣秀吉の小田原征伐の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府から江戸に入った。そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水が入り込む茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野に連なった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州が現れていたという ・関東移封時の徳川家は約250万石(関ケ原の戦い時点:300万石)。全国石高(推定1800万~2000万石前後)の約1割強
・豊臣政権下での一大名ということもあり江戸城改築は小規模であった。
 1603年  家康が江戸幕府を開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。江戸前島東側に舟入堀を開削、神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、町割を実施、大改築に着手した。 慶長度天守の江戸城は、家康の構想でおこなわれた。大阪に豊臣家(秀頼)があったことから強力な実戦型の城郭となっていた。
 1607年/
慶長12年
慶長度天守(創建:徳川家康)が完成。
 1615年  大阪夏の陣、豊臣家滅亡  
1616年  家康死去(享年 満73歳/数え75歳)  
 1623年/
元和9年
元和度天守(創建:徳川秀忠)が完成。 元和度天守は、豊臣家が滅亡したことから平和の時代を標榜する管理型の城郭構造となった。
1632年   徳川秀忠死去(享年満52歳)  
1638年/
寛永15年
寛永度天守(創建:徳川家光)が完成。
1651年   徳川家光死去(享年満46歳)  
1657年/
明暦3年 
・寛永度天守は、明暦の大火で焼失、
・死者数については諸説あるが、3万から10万人
・将軍(4代):徳川家綱15歳の時。
 ・将軍補佐役の保科正之(ほしな まさゆき、秀忠のご落胤)が「天守は実用的な意味があまりなく、無駄な出費は避け、幕府の金は都市整備に充当すべき」と主張し、天守は再建されなかった。